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木漏れ日の空間にようこそ !!

木漏れ日の空間にようこそ !!

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b46【「我、抜刀する時すでに勝負あり」について】
▲現在より(2011-11-20)18年遡って山口實君(自称養父の長男)大海勉君(自称養父の三男)が、自称養父の思惑を無視して、連れだって、私に事件のウラの事実の存在と自分たちがそれぞれに抱え込んだ状況を報告に来れば、自称養父の力を借りなくてもトヨタには負けはしなかったのです。両人が自称養父に協力の依頼をすれば、仮に中曽根康弘氏⇔中曽根氏の政治的子分だった?ハタ?氏が中曽根氏と手を切らなくてはならなくなる。その他任意の政治家と豊田の両人が手を組んでも、彼等との共同行為になれば勝てたのです。自称養父の力を頼む場合は、實君、勉君が自称養父を押さえ込まなくてはいけなかったのです。(私が押さえ込まなくてはならなくなったからいけない)彼らが自称養父を押さえ込めばトヨタなど歯も立なかったのです。私が、自称養父に押さえ込まれれば、私は生き残っても(ノウハウは世界に通用する)自称養父一族は危なくなる。ノウハウの存在を忘れて事態に対処するからいけない。(メモして首に吊しておく必要があった)今となれば、取り返しはできませんが、娘の尚子まで国会議員(参議院)になれる可能性がでてきました。「勉君は命を大切にしろよな」

▲豊橋警察署前の事件(41年前)の事件がなければ、私は、警察を押さえ込む必要はなかったのです。おの事件が合ったために私は不本意ながら警察の目上に位置せざるをえなくなったのです。人ごとのように受け止める人も、宗教を唱える者の想うことではないと批判する者は、必ず罠にはまります。理由は、宗教を唱える者は政治に介入しなくてはならない義務はないからです。政治に宗教を持ち出せば、余計な口出しになる可能性があります。(一般として介入はできるだけ)實君、勉君が連れだって事件に関するそれぞれの報告にきていれば、コングリマリット(政官財利益複合体)に融合されても対立する必要はなかったのです。但し、コングリマリット(特に見える形がある訳ではない)の中でトヨタと対立する可能性はありました。政府が謝罪すれば、国民に謝罪するのではなく個人的な謝罪になりますので、政官財複合体の上位に位置することになると思います。意図的に行うものとは違いますから、野心に類する良心の抵触は感じません。大川隆法は抵触するのではないか?仮に平松裕君や小野田江南さんが公安委員会にメンバーになればコングリマリットの一員とも言えるのです。

▲私は宗教理念と銘った思想を示していますので密教とは異なります。何処が違うか?と言えば、宗教は、説く以上「神とは何か?」又は「良心とは何か?」「愛とは何か?」「信とはなにか?」の三つの定義に答えて説明しなくては意味がないのです。勿論、答えずに説明することはできますが、道徳になります。説明すれば、道徳と鑑っても宗教になります。謳い文句は関係ありません。又、宗教を間違って説くとバチ(教説の内容が自分に還ってくる)当ると云う俗説は間違いです。本当は、愛や真に関して自分が実行しないで、又、聞きや通説の知識で説くから間違いが起きるのです。隆は、愛や信、良心は、自分が行って悪い結果が出ればとけないからです。何で、結果が出たか?出なかったか?検証、反省すれば解るようになるのです。悪い結果を改ざんして説く行為は、悪魔への道に踏み出したことになりますので、自分に当座の不都合は起きなくても改めなくてはいけません。即ち、良心に問わなくてはならないようになっているのです。要するに最初に良心に従った生き方がなくてはいけないのです。対して、密教は何を教えているか?さえ定義されていません。戒め注意は、行いがなくても説いてよいと思います。

▲言いそびれましたが、労務に関するノウハウは、厳密には必要な人が自分で創ってもらうことになります。アイディアの提供と云うことになりますので訂正させていただきます。クリントン政権時代のことですが、中京大学の松田学長がアメリカのホテルで殺害された、時件がありました。個人の犯罪化マフィアの犯罪かは知る由もありません。奪われた書類の内容も知る由はありません。推理をたくましくすれば、私の労務管理に関するノウハウのアイディアをベースにして豊田章一郎が作成したノウハウだったかも知れないと云うことですが、私の疑問は、何で松田学長に預けたか?と云う疑問です。私は、奪われた書類は私のノウハウには関係ないものとしなくてはならなくなります。いくら、私のアイディアをベースにして創ったノウハウでも豊田章一郎が創ったものは彼の利権になります。唯、私が創ったとすることも可能です(アイディアの内容を変えれば不可能ではない⇔未だホームページで公開は行っていなかったからどのようにでも変えれる)が、彼のことですから落とし穴があると考えなくてはなりません。その落とし穴から不都合が生じても私の責任ではありません。損害賠償を請求する対象にはなりません。トヨタ自動車から、アイディア料をもらう気持ちはありません。

▲私は、精神活動を類別すれば、想念現象は、霊感、想像、空想、妄想と同じ種類に属すると考えています。それぞれの違いは、精度の問題とすれば理解できます。電磁波に例えれば、想念は、超短波、短波、中波、超波に相当すると云うことです。言いたいことは、如何に精度が高い波動でも、完全ではないと言うことであり、霊感能力も妄想の体質に変わり得ると云うことです。何を仲介として変わるかは、それぞれの人の問題にすべきことと思います。(但し、一般的に通用する普遍的な基準はあると思いますが、根拠を証明できない以上普遍的な基準とすることはできないと云うことです)以上のような不安定な現象に、精神活動の主体を置いていてはいけないのです。現実に目で見え耳で聞こえる現象にも精神活動を置かなくてはいけません。要するに二本立てで行うことです。当事件を神(神に象徴される高級心霊集団)の立場で考えれば、それぞれが良心に足場を置いて「考え行動しなさい」と指導しているのです。

▲優性遺伝は、遺伝子そのものに使命があるのであって、個人の転生の宿とする考え方は、間違いです。優性遺伝子は、遺伝子自体に使命があって、個人の転生の宿とするものではありません。内密に計画を進めることは良いのです。唯、内密に勧めた計画が明からさまになったばあい変更は良いとしても、計画を停止することは計画自体に問題があるのであって、明らさまになった行為を責めることはできません。泳がせておいて(勝手なことを言わせて)本性を探る必要のある人が居るのか?行く行くはそのような行為さえも、はじめから、明らかになる時代が来るとこころえなくてはいけません。(特定行為の動機、目的が初めから解る)したがって初めから、明らかになってもよい動機、目的でなくてはならなくなると云うことです。注意事項として、泳がせて本性を探るこういは、マインドコントロールに嵌められる危険があると云うことです。俗語で説明すれば、相手の方が役者が上になると云うことです。自分の方が役者が上なら泳がせて探る必要はなくなります。(役者が上になる努力をしなくてはいけない)
「観ていてみろ、おわりが、おわりにできないぞ!」の言葉は実際におわりにならなければ、今度は「オレの言うと通りだろう」となり「なるほど」となってマインドコントロールにはまるのです。

▲山口武雄(母方の叔父⇔生死不明)は、彼にとっては実兄の自称養父の意向に沿って生きていたのだから、如何なる理由があっても、自称養父を救う(厚生させるまではまで)は、彼を見放すことはできないはずです。それがあの世の掟と考えます。(但し、私の見解で掟に関する普遍的真理は知りません)武雄の原稿には雷を落としたくなります。祖父母は、そんなに「おかしい」ところはありませんでしたが、二人も「おかしい」子供ができるとはどうゆうことか?ちなみに、曾祖父母については,曽祖父は名前は弥助と言い、文久三年生まれの明治、大正時代を生きた人で昭和15年に死亡しました。文盲か?どうか?は知りません。多少は読み書きができたと思います。私は、子守を行ってもらった記憶はありますがね正格は知りません。曾祖母「せつ」と言い慶応三年生まれで昭和25年83才で死亡しました。歌舞伎がすきで巡業歌舞伎をあちこちの部落に出かけて観ていた様子です。(若い頃のことで私は知りません)

歌舞伎の題材は江戸時代のものですので、道徳観が時代遅れになっており、(具体的には實君をいじめているように見える)又、人に対して厳しい評価をする人でもありました。私は、根性が悪い(反抗的と言うこと)と言われていました。実の娘でもある祖母は、その態度を非難していましたので、さほどの被害は受けませんでしてた。以上は成人してから回想したしょけんです。優性遺伝など創作らしき想念が飛び交いますがち、シナリオライターが関与しているのですか?当事件を題材として物語にしてもらっても私は、構いませんが、(他の人はど質はうか知りません⇔少なくとも名誉棄損にならないように家がなくてはいけません)あくまで事実に沿ったものにしていただかないと重大な結果を招きます。(虚実があってはならない⇔野放しになっていれば、警察庁償還の責任です)当事件をヒントとして創作物語を創りたいなら、当事件との区別が一目瞭然にできるものにしていただかなくてはいけません。

▲「我、抜刀する時すでに勝負あり」は上杉謙信の信条かも知れませんが、多くの人が信条としていますので、盗んだことには相当致しません。但し、「言葉として残っていれば」判断のしようがありませんので、言い伝えに従うだけです。(知らせてもらえば)唯、刀を抜かずに相手に宣告すべき言葉ではありません。しかし、使いたければ使ってはいけない言葉ではありません。自己責任になると云うことです。「何でこのような言葉が、自己責任になるか?のヒントは、良心に抵抗するか?しないか?の問題に進展する人も居るからです。勿論、進展しない人も居るはずです。「オレが拳を上げた時はすでに、勝っている時だぞ、今さら抵抗しても遅いぞ」も同じことです。抵抗をガッチンコに置き換えれば意味は違いますが、考え方は同じです。ガッチンコには立場が逆転していることに気付かずに行うものと、気付いてはいるが感情が許さないので仕方なく行われるものがあります。これはいけません。感情を直さなくてはいけません。一つだけの思想を知ると「先入観になる恐れがあるぞ」他のものを知る必要うがります。宗教と名うった思想の中には「マインドコントロールになるものもあるぞ」思想は絶対に間違いなく示せるものではありません。間違っていてもよいのです。間違いは指摘するものです。指摘するには自分の思想がなくてはいけません。他人の思想でも借りものではなく身となり骨となっていればよいはずです。身となり骨とするには行いがなくては不可能です。おわり。

▲「おわり」にしたくてもできなくなる原因は自分にあるのか?自分以外にあるのか?回答してもらいたい。「確認事項」私は、密教を行う者ではありません。宗教を説く者です。宗教は道徳を内包するものであります。テレパシー能力にも言えることですが、能力を使う者は宗教を説かないと自己完結ができなくなります。道徳でも自己完結ができますが、制限が生じます。例えば時代が変われば道徳はかわります。(性道徳は顕著な例⇔別途記載すみ⇔敵を知らずして勝てるか?ホームページを視なくて勝てるか?⇔自信のある人挑戦する意志のない人は上記限りではありません)おわり「解ったよもう」などと想念で回答する行為は「解っていないよ」との同意語になります。(2011/11/24) もっと読む
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